埼玉県寄居町のカウンセリングルーム

心のコラム

№63 興福寺・阿修羅像の祈り ~それは、救済であり、誓いです~

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№63 興福寺・阿修羅像の祈り ~それは、救済であり、誓いです~


 先日、奈良と京都に出かけました。奈良・興福寺の国宝館では、三面六臂の「阿修羅像」と向き合うことができました。少年のように細く、どこか悲しみを湛えたその表情は、戦いの神であったはずの阿修羅のイメージを大きく裏切るものです。怒りというよりも、不条理な世界に向き合う人間の苦悩と祈りが刻まれているように思えました。
 いま世界では、イスラエルとイランの緊張が続き、報復と攻撃が連鎖しています。要人殺害が「成果」と語られ、次の標的が公然と宣言されるニュースに触れるたび、胸が締めつけられる思いがします。戦いに宗教的な背景が複雑に関わるからこそ、「砂漠の民の宗教には、仏教のような許しや祈りはないのだろうか」と考えてしまうことがあります。
 どの宗教も本来は「救い」を求める心から生まれているのではないかと思います。ユダヤ教やイスラム教は偶像崇拝が禁じられ、祈りは言葉と行為を通して率直に表されます。仏教のように像に願いを託す文化とは異なります。神との契約や掟を守ることが救いにつながると考えられてきました。
 一方で仏教は、仏に救済を求めるというより、「自分の苦しみそのものを見つめる」ことを大切にする宗教といえるかもしれません。阿修羅は、争いや怒り、他者との比較による苦しみに囚われた心の状態を象徴するといわれています。その阿修羅が、仏の教えによって仏法を守る護法神へと変容し、弱さを抱えたまま善を求める存在となったと考えられています。
 興福寺の阿修羅像が放つ静かなまなざしは、まさにその象徴です。イスラエルやイランに生きる人々もまた、私たちと同じように不安と恐れの中で心の拠り所を探しているはずです。祈りの形は違っても、平和を願う気持ちは変わらないのではないでしょうか。阿修羅像は、争いの時代に生きた人々の信仰の対象であると同時に、社会の痛みを受け止める「心の避難所」でした。
 どの時代にも、どの国にも、政治や社会制度だけでは救うことのできない、悩みや苦しみを抱えた人々がいます。そこに、「祈り」があります。「祈り」とは、救いを求めながらも、自ら歩き出すための静かな誓いなのかもしれません。
 千年の時を超えて、数えきれない人たちの祈りを受け止め続けてきた阿修羅像に、私も静かに手を合わせました。   合掌 

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